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 藤高偉人伝    〜藤高に関係のある偉人を紹介します〜 

  明道館(明新館)   福井中学    福井高等女学校    藤島高校

荒川洋治
あらかわ・ようじ (1949〜  ) 【詩人】
 三国町で生まれる。本名は荒川洋治〈あらかわよしはる)。藤島高校在 学中に詩誌「とらむぺっと」創刊。早稲田大学文芸科在学中の二十二歳の時、第一詩集「唱婦論」を出す。二十七歳の時、第二詩集「水駅(すいえき)」でH氏 賞受賞。戦後生まれでは初の受賞だった。新しい詩の世界と積極的な問題提起で注目されている。評論・エッセー集に「夜のある町で」「読書の階段」など。詩 書出版「紫陽社」代表、ラジオのパーソナリティーも務める。

 藤島高校三年の時の担任、土田恵先生の思い出…「文学についてとても熱心で、これほど立派になるとは思わなかったけれど、当時から文学の方で身を立てる であろうと思いました。目標をはっきりと持っていて、受験勉強よりも、三国出身の三好達治や文学者をたずねて交流を持っていました。大学も国立よりも、目 標を定めた大学受験をしましたね。」

黒川康正
くろかわ・やすまさ (1950〜  ) 【弁護士・公認会計士・通訳】
 福井市で生まれる。藤島高校を 卒業後、東京大学経済学部に進学。二十三歳、東大在学中に、公認会計士二次試験に合格。卒業後は世界最大と言われるクーパーズ・アンド・ライブランド会計 事務所に入所。二十五歳の時、通訳試験と英検一級に合格。二十七歳の時、公認会計士三次試験に合格し、独立開業する。三十歳で司法試験合格。我が国で唯一 の「資格三冠王」として、国際的な法律、会計、税務、監査、特許、経営コンサルティング等の業務に従事する一方、執筆、講演、テレビ出演なども精力的にこ なしている。 現時点で約百冊の著書がある。

 藤島高校三年の時の担任、酒井清先生の思い出…「派手な男では、決してなかった。目立たない生徒であったが、芯は強かった。表に出さないが、心の中に秘めたものがあった。やろうと思ったことは、必ずそれをやりとおす根性を持っていた。」
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小松長生
こまつ・ちょうせい (1958〜  ) 【指揮者】
小松長生氏には本校ポスターのモデルもお願いしました。 三国町で生まれる。東京芸大付属高校に首席合格したが、「指揮者になるには幅広い勉強を」との助言により、藤島高校に進学。その後、東京大学文学部美学芸術学科に進学し、東大卒業後はアメリカのイーストマン音楽学院指揮科に学ぶ。

 昭和60年、エクソン指揮者コンクールに優勝(日本人初)。バッファロー管エクソン派遣指揮者、ボルティモア響アソシエートを経て、平成5年よりカナダ のキッチナー・ウォータルー交響楽団の音楽監督を、また武生(たけふ)国際音楽祭の音楽監督を歴任している。平成6年にはザルツブルク音楽祭にデビュー。 これまでに、モントリオール交響楽団、ケルン放送交響楽団、ボリショイ劇場、モスクワ放送交響楽団などに客演。 平成13年1月キエフ国立歌劇場のヴェルディ週間に招かれ、『椿姫』を指揮。ウクライナ共和国黄金十字章を授与された。平成14年6月には、韓国・水原に て行われた日韓ワールドカップ記念イベントに参加。またソウル・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会にも客演し、戦後、韓国のオーケストラを日本人として 初めて指揮する。

 現代曲、オペラ、教育プログラムのプロデュースや、ジャズ・ピアニスト小曽根真との共演など、ジャンルを越えた広汎なレパートリーを持つ。
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俵万智
たわら・まち (1962〜  ) 【歌人・エッセイスト】
 大阪府門真市で生まれる。中学生の時に武生市に転居した。藤島高校に進学後は演劇部に所属していた。昭和56年、早稲田大学第一文学部に進学。二十一歳の時に、短歌結社『心の花』に入会、作歌を始める。卒業後、神奈川県立橋本高校の教員になる。

 昭和六十一年に「八月の朝」五十首で角川短歌賞受賞。翌年、「サラダ記念日」を刊行し、第三十二回現代歌人協会賞を受賞する。平成三年、二十八歳の時 に、史上最年少で国語審議会委員に選ばれて七年間、平成六年には中央教育審議会委員に就任して六年間、それぞれ職務を全うした。現在も精力的な執筆活動を 行うほか、様々な分野の人々と交流し、時代を代表する文化人として活躍している。

 藤島高校三年生の時の担任、強力邦明先生の思い出…「ヘアスタイルや言葉を選びながらしゃべる語り口は今と同じ、そのままで、健康なまじめによく勉強す る生徒でした。演劇部では準主役を演じていましたね。成績はとても優秀でした。有名国立大学合格まちがいなしの成績であったにもかかわらず、早稲田大学の 推薦入学を希望しました。これは意外でしたが、早稲田大学文学部の高名な教授の講義を聞くという目的があってのことでした。推薦入学が秋に決まってからも 卒業まで手を抜かず勉強していました。」
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中垣内祐一
なかがいち・ゆういち (1967〜  ) 【元バレーボール選手】
 福井市江上町で生まれる。川西中学校入学時からバレーボールを始め、藤島高校に 進学後もバレーボール部に入部した。高校時代のバレー部は勉強優先だったが、学校と家の間が十キロメートル以上あり、片道三十分以上かかる道のりを毎日自 転車で通学して、瞬発力や体力を養う。高校三年生の時、県体四位、北信越ベストエイトに入賞。この時からバックアタックを打つようになった。

 筑波大学進学後、頭角を現し、全日本に入る。数多くの国際大会でプレーし、バレーボール日本代表の顔として活躍する。バルセロナオリンピックでは六位入賞の原動力となった。現在はバレーボールVリーグ・境ブレイザーズの監督として活躍している。
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