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明道館(明新館) 福井中学 福井高等女学校 藤島高校
岡田啓介 |
(1868〜1952)【内閣総理大臣、福井中学第の一回卒業生】 |
福井市手寄町で生まれる。旧制福井中学の第一回の卒業生であった。
海軍大学校、海軍大学水雷術専科等、学術優等にて修了。海軍軍人として、日清・日露の両戦争に従軍し、五十六歳で海軍大将に、五十八歳で連合艦隊司令長
官に、五十九歳で海軍大臣になった。その間、ワシントン軍縮条約締結の際は、海軍次官として国の前途を考え、米英との協調で軍備縮小に努めるなどした。六
十六歳の時、首相に選ばれ、岡田内閣を組職したが、青年将校が中心となって首相官邸を襲ったクーデター(二・二六事件)の責任をとって総辞職した。この事
件で奇跡的に助かった岡田は、太平洋戦争に反対。東条内閣打倒、鈴木内閣の成立を図り、和平の為尽力した。
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高田博厚 |
たかた・ひろあつ(1900〜1987)【彫刻家】 |
石川県七尾市で生まれ、三歳の時、父の弁護士開業のため福井市に移り住む。十三歳の時、旧制福井中学に
入学。当時、東京美術学校に在学していた彫刻家・雨田光平氏(第一号の福井県名誉市民)の作品によって、初めて彫刻に触れ、文学、哲学、美術に熱中した。
中学卒業後、東京美術学校受験に失敗。東京外国語学校イタリア語科に入学する。二十一歳の時に出席不足にて落第、退学するが、「ミケランジェロ伝」のイタ
リア語原書をミラノの本屋から直接購入し、訳註するまでに力をつけていた。
高村光太郎や岸田劉生などとの出会いを通じて、生涯かけて彫刻を追求することにした彼は、昭和六年、三十歳で妻子を残して単身パリへ渡り、ロダンやマイ
ヨールら近代彫刻の巨匠に学んだ。その後、昭和三十二年に五十七歳で帰国するまでに、文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらヨーロッパの代表的な芸
術家たちと交流し、彫刻の制作に没頭した。日本帰国後は執筆活動や講演などに積極的に取り組み、晩年は制作に専念するために鎌倉に転居。昭和六十二年、静
かにその生涯を終えた。福井市美術館(アートラボ)には、彼の作品が常設展として展示されている。また、本校玄関には彼のレリーフが展示されている。 |
中野重治 |
なかの・しげはる (1901〜1979)【小説・詩人・評論家】 |
坂井郡高椋村一本田で生まれる。旧制福井中学五
年のころから文学に親しみ、他には幾何学や絵を描くことが好きであった。第四高等学校(現・金沢大学)文科に入学後、あらゆるジャンルの文学に親しみ、自
らも短歌、詩、小説を習作した。東京帝国大学文学部ドイツ文学科に進学すると、同人誌「裸像」「驢馬」に多くの詩を発表。林房雄らとの交流を通じて、プロ
レタリア文学運動に力を注ぐようになった。三十歳の時、治安維持法違反の容疑で逮捕され、二年後に政治運動から身を引くことで刑務所を出所。文学活動を再
開した。
戦後は民主主義文学者の結集に努力し、新日本文学界を創立。以後、小説、評論、随筆、講演、座談会など、幅広く活動を展開し、昭和三十年〜四十年代には
「むらぎも」「梨の花」「甲乙丙丁」など、代表的な小説作品を世に送り出した。昭和五十四年、七十七歳でガンのために死去。翌、昭和五十五年、彼の遺志に
よって一本田の生家跡の屋敷が丸岡町に寄贈され、世田谷から移築された書斎や石碑が立てられた。毎年八月には『くちなし忌』が開催され、全国から中野文学
ファンが大勢集って、彼の遺徳を偲んでいる。 |
深田久弥 |
ふかだ・きゅうや (1903〜1971)【小説・登山家】 |
石川県江沼郡大聖寺町で生まれる。旧制福井中学卒
業後、一高、東京帝国大学文学部哲学科へと進んだ。昭和五年に発表した「オロッコの娘」が好評であったことをきっかけにして、東大を中退し作家活動に入
り、「青猪」「津軽の野づら」の二作品集で、風土色豊かな地方主義文学を確立した。若い頃から山々にひかれ、本格的な登山に親しんでおり、随筆や紀行文な
ども数多く執筆した。昭和二十一年に復員した後は、越後湯沢、大聖寺、金沢、東京と居を変え、小説よりもヒマラヤ研究に力を注ぐようになり、「日本百名
山」で第16回読売文学賞を受賞した。昭和四十三年には日本山岳会副会長に就任。昭和四十六年、茅ヶ岳頂上近くで脳卒中により急逝する。
「日本の百名山」は山岳の名著として、登山愛好家に読み継がれており、今も百名山制覇を目標として登山を続ける人が大勢いる。なお、福井県内では大野市の「荒島岳」が百名山に選ばれている。 |
石田和外 |
いしだ・かずと (1903〜1979)【最高裁判所 第5代長官】 |
福井市宝永一丁目で生まれる。旧制福井中学一
年の時、父が肺結核で死亡したが、逆境に負けることなく、勉学に励んだ。
三年修了とともに東京の私立錦城中学に転校し、その後、一高から東京帝国大学へと進学した。生涯を司法界に捧げ、昭和四十四年には最高裁判所長官に就任
し、四年間にわたって長官職にあった。その任期中には様々な事件を扱い、時にはその判決が批判にさらされることもあったが、正しいと思うことをどこまでも
曲げない信念と気魄とを持って、仕事を続けた。
福井中学については、学校の規律が非常に厳しく、生徒たちは冬でも素足で過ごしたということ、また二年の夏、九頭竜川で大野中学と合同の水泳講習会が開
かれた時に、後に一高で同級となった元衆議院議長の福田一さんと出会ったことなどが思い出として残っているという。また、生涯親しんだ剣道についても、小
学生のころに神明神社境内の武徳殿で稽古を行ったこと、中学時代には正課として剣道を行い、早朝のまだ暗いうちから、寒稽古の為に学校に通ったことなどが
印象深かったということである。 |
藤田良雄 |
ふじた・よしお (1908〜 ) 【国際的な天文学者】 |
三国町で生まれる。後に福井市に移り、足羽小学校、旧制福井中学へと進む。足羽川のほとりにあった自宅の物干し台から、星空を眺めたのが天文学を学ぶきっかけになったという。
中学卒業後は一高、東京帝国大学理学部天文学科に進学。東大教授を経て、現在は東大名誉教授を努めている。昭和三十年に日本学土院恩賜賞を受け、昭和四
十年から日本学士院会員。平成六年からは平成十二年までは日本学士院会長を努めた。また、ベルギー国リエージュ王立科学学士院外国会員でもある。昭和五十
四年には福井市名誉市民第一号に、そして平成八年には文化功労賞に選ばれた。高齢にもかかわらず、学問に対する熱意は衰えることを知らず、本校に講演に訪れられた際なども、熱っぽい口調で天文学について語っておられたのが印象深い。平成十四年には水上努氏や白川静氏とともに、福井県民賞を授与された。専門分野は天体分光学、とくに低温度星のスペクトル。 |
榊原 仟 |
さかきばら・しげる (1910〜1979) 【心臓外科の世界的権威】 |
福井市宝永上町で生まれる。旧制福井中学か
ら東京帝国大学医学部に進み、卒業。四十歳の時、東京女子医科大学教授となって、心臓手術に取り組み、ポタロ管開存、弁切開術に成功、心臓外科の世界的権
威となった。日本心臓血庄研究所を開設したほか、医療法人福井心臓血圧センターや・福井循環器病院、そして榊原記念病院を開設した。
仟氏の回顧録には、当時の福井中学の大島英助校長について、次のように述べられている。「クラスは成績順に甲乙丙丁戊に分ける。幸い私は甲組だったが、
こんな差別をしたのも、人には適材適所があり、上級学校へ進まなくてもよい者までが、無理をして進学するべきではないとの信念にもとづく。宿題は一切出さ
ず、勉強は学校でするものと説いた。子供たちに大きな夢を持つよう導かれたのもすばらしい。福井は元来保守王国で、暗い天候も災いして、因循(古いしきた
りに従っているだけで改めようとしないこと)な人が多いとされている。その中にあって、今後の日本を担う若人は、世界に雄飛する大志を抱くべきだとされた
のである。」と記している。 |
宇野重吉 |
うの・じゅうきち (1914〜1988) 【俳優・演出家】 |
足羽郡下文殊太田で生まれる。本名は寺尾信夫。旧制福井中学を
三年で中退し、上京。日本プロレタリア演劇研究所に入る。滝沢修、清水将夫らと昭和二十五年に「劇団民芸」を創立し、民衆に根ざした演劇芸術をつくり出す
ことを目指して活動。日本の演劇界に大きく貢献した。独特の語り口による朗読も行い、敬愛していた中野重治の「梨の花」など様々な作品を読んでいる。
生涯、ふるさと福井を愛し、そのお国自慢(特に「おろしそば」と「たくあんの煮たの」は大好物だった)は有名である。出生地には「新劇 愉し 哀し」の
演劇碑が建つなど、県民にもなじみが深い。昭和六十三年には第一号の福井県民賞を受賞している。著書に「光と幕」、語り「おじいちゃんのむかしばなし」な
どがある。俳優の寺尾聰氏は長男。 |
南部陽一郎 |
なんぶ・よういちろう (1921〜 ) 【世界的な理論物理学者】 |
東京で生まれる。関東大震災で被災し、2歳の時、父の実家である福井へ移った。旧制福井中学卒業後、一高、そして東京帝国大学物理学料に進学。ノーベル賞受賞者の故・朝永振一郎博土の推薦で、1952年に米国プリンストン高等研究所へ移る。1958年にはシカゴ大学教授に就任。研究の為に米国に帰化する。
超電導理論に基づく素粒子の研究において、幾何学的対称性が物理現象によって自発的に破れることを初めて明らかにしたことや、量子力学と呼ばれる新分野
を開拓したことが評価され、素粒子研究の世界的権威者としての評価を得ている。1978年には文化勲章を、1979年には福井市の名誉市民に選ばれた。2008年ノーベル物理学賞受賞。 |
天谷直弘 |
あまや・なおひろ (1925〜1994) 【通商産業審議官・資源エネルギー庁長官】 |
旧制福井中学を
卒業後、静岡高校、東京大学法学部政治学科へと進学した。二十三歳の時、商工省〈通産省)に入って順調に昇進を重ね、四十八歳の時には資源エネルギー庁長
官となり、当時、大きな社会問題であった「石油危機」への対応策に専念し、成果を上げた。また、福井臨海工業地帯の石油備蓄基地としての利用法などを提案
した。五十四歳の時には、事務次官(官僚の最高位)級の通商産業審議官になり、五十六歳で退官。その後は臨時教育審議会の第一部長や電通総研所長を務め
る。六十四歳の時には、福井市名誉市民に選ばれた。天谷氏は、自著「日本町人国家論」で、日本を名誉や美意識なく、金もうけに徹した町人国家に例え、国際
社会で信頼を得るに足るノーブルな体質に変わらねばならないと唱えた。天谷氏が亡くなったとき、松下政経塾の岡田邦彦氏は「歴史的な文脈の中で、日本の産
業政策を考え、自ら国際的な説得工作ができ、国民にもそれを端的に説明ができるスーパーマンだった」と回想している。 |
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明道館(明新館) 福井中学 福井高等女学校 藤島高校
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