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 藤高偉人伝    〜藤高に関係のある偉人を紹介します〜 

  明道館(明新館)   福井中学    福井高等女学校    藤島高校

松平春嶽
まつだいら・しゅんがく (1828〜1890) 【福井藩十六代藩主、明道館の創始者】
 徳川三卿の一つ、田安家で生まれる。十一歳の時、越前松平家の養子となり、福井藩三十二万石の第十六代藩主となった。

 藩主となった春嶽は福井藩の改革に着手した。倹約を奨励し、財政整理を進め、産業の振興を図るなどして、赤字財政の立て直しを目指した。同時に、海防態勢の強化、洋式銃砲の製作、軍制改革などの強兵策を推進した。また、藩校明道舘や洋書習学所を設立して教育の振興をはかり、肥後藩の横井小楠を招いて政治顧問とするなど、優れた人物を登用した。

 その一方で、幕政改革をも目指し、一橋慶喜を将軍の後嗣とすることを主張して、橋本左内らを奔走させたが、紀州派に破れ、隠居・謹慎に処せられた。その 後、政治情勢の変化により、幕府の政事総裁職に起用され、幕政改革を進めることになった。また、大政奉還により幕府が崩壊していく中で、徳川家の救済と政 局の収拾につとめ、内戦の不拡大に尽力した。

 明治政府では議定となった後、内国事務総督、次に民部卿と大蔵卿を兼職、間もなく大学別当兼侍読となった。その後は、文筆活動に入り、晩年にいたるまで 数多くの著作を残した。有能な人材を門閥にとらわれず登用、開明的な政策をとった彼は名君と称された。

橋本左内(景岳)
はしもと・さない (1834〜1859) 【幕末の先覚者、明道館の第二代校長】
  福井市常盤町で生まれる。幼いときから学問を好み、わずか十才で漢文の「三国志」を読破したという。十二歳の時には宋の武将・岳飛にあこがれ「景岳」と名 乗り、十五歳の時には「啓発録」で自分の生き方についてつづった。十六歳の時、大阪・緒方洪庵の適塾に入門。梅田雲浜、横井小楠らと交際した。帰国後は藩 医として父の跡を継いだが学問への思いは熱く、江戸に遊学し大いに学んだ。江戸では西郷隆盛など諸藩の有志たちと親交を結んだという。

 二十四歳の時、明道館の学監同様心得に任ぜられて、 教育改革に取り組むことになった。彼の目指す教育は、日本古来の精神を基本としながらも、科学教育を重んじ、外国の優れた思想や文化を幅広く取り入れ、日 本を近代化することを目指したもので、洋書習学所や算科局などを新設したほか、総武芸稽古所を館内に併設し、和魂洋才の学風を確立した。

 この年の八月、藩主・春嶽公の命令を受けて、江戸に上り、幕政改革に関与することになった。左内は日露同盟論に代表されるような世界的視野を持った国家 体制の構想を持ち、幕府や諸藩の有志と親交を結んだ。また、将軍継嗣問題や米国との通商条約問題については、朝廷の意見を尊重しつつ議論するべきで、幕府 の独断によるべきではないと考え、京の公卿間を遊説してまわった。

 しかし、井伊直弼が大老となり、反対派諸侯が処罰される中、左内もまた「安政の大獄」で、二十六歳の時、斬首の刑に処せられた。このころに、藩の枠を越 え、日本の近代化を構想していたのは左内のほかにほとんどいなかったことを考えると、左内の時代の流れを見る目がいかに優れていたかが分かる。 

由利公正
ゆり・きみまさ (1829〜1909) 【藩財政改革・五ヵ条の御誓文の起草者・初代東京知事】
 福井市毛矢町で生まれる。三岡八郎とも呼ばれた。書物からの知識より、生活体験を通じてこそ、現実の社会に対応できるという実用主義的な信念を持ち、剣術・槍術・新式砲術など武術にすぐれていた。

 熊本からやって来た横井小楠に明道館に て学び、赤字に苦しむ福井藩の財政立て直しに取り組んだ。福井では、藩札を発行して、生産者に融資したり、物産総会所を設けて藩内の物産の集荷・購入にあ たらせたりした。また、長崎に「越前蔵屋敷」を建設して、オランダ商舘と福井産の生糸やしょう油などの販売契約を結んだりもした。以上のような公正の富国 策は成功し、莫大な借金を抱えていた藩の財政は黒字となった。

 公正の才覚に目をつけた坂本竜馬の進言により、新政府に登用され、参与職となったのは38才の時であった。会計基立金の調達、大政官札の発行など、新政 府の財政難解決のために努力した。明治元年には「国事五箇条」(のちの五箇条の誓文)を起草した。また明治四年には、初代東京府知事に就任。銀座通りを開 設した。 明治七年には『民選議院設立建白書』に署名し、国会開設を主導した。その後も、元老院議官貴族議員などを歴任する。薩摩・長州出身者の多かった 新政府で、大いに活躍した彼の才能は実に非凡であった。 

ウイリアム・グリフィス
ういりあむ・ぐりふぃす (1842〜1928) 【福井藩校・明新館の理科学教師】
 米国フィラデルフィアで生まれる。ラトガース大学理学部卒業。ラトガース大学在学中に日下部太郎と出会い、その人格に魅せられ、その勉学態度をみて、日本人の節度、勤勉さに心を動かされ、二十八歳の時、牧師となることが決まっていたにもかかわらず、かつて太郎が学んだ明新館(明 治二年に「明道館」から改名)で、その後輩たちに理科を教えることになった。そこでグリフィスは自ら天窓のついた段階式理科室と大窓のついた化学実験室を 設計し、実験のための器具や地球儀、顕微鏡、天体望遠鏡なども準備した。これは日本最初の米国式理科実験室であったという。また、化学と物理の教師として 雇われたにも関わらず、ドイツ語やフランス語を教えたり、自由独立・人種平等の思想について語ったり、アメリカの文明やキリスト教を紹介したりするなど、 学生の教育に熱心に取り組んだ。明治四年七月、明治新政府の要請を受けて、東京の大学南校(東京大学の前身)に転じ、わずか十ヵ月ばかりの滞在で福井を去 る。

 帰国後は牧師となったが、文筆と講演を通じてアメリカ人に日本と日本人を理解させることを第一の天職とするほどに日本を愛し、日本学の先駆者となった。

日下部太郎
くさかべ・たろう (1845〜1870) 【福井藩第一号の留学生】
藤島高校の近くにある市立図書館には、日下部とグリフィスの顕彰碑があります。 福井市江戸町で生まれる。旧名を八木八十八(やぎやそはち)といった。少年時代は福井藩の明道館で 勉強していた。二十歳の時、福井藩から選ばれ英学修行のため長崎へ出発。二十二歳の時に長崎を旅立ち、福井藩第一号の留学生としてアメリカヘ向かう。この 時、松平春嶽から、日下部太郎と改名するよう勧められる。二十三歳の時ラトガース大学入学。翌年グラマースクールでグリフイスにラテン語を学ぶ。

 太郎は通常四年の数学の課程を三年で習得、常にクラスの首席で通すなど、成績抜群であった。天才的数学者としてアメリカ・アカデミー賞の初代受賞者の一 人となったが、学費の不足による苦しい生活と、気候風土の違いにより結核にかかり、卒業を目前に病死した。二十五歳であった。ラトガース大学はその死を惜 しみ、卒業生名簿にその名を加えたという。

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