〜お笑い班〜


<舞台暗転>
<舞台中央にベンチを運ぶ>
<舞台下手からピンスポで二人を追いかける>
<寺角にピンスポ>
「おや。お笑い芸人のコンビのようじゃの。どんな話をしてるか
きいてみようかの。ふむふむ、赤いTシャツが大林君。青いTシャ
ツが奥出君のようじゃ。どうも悩んでるようじゃのう。」
<大林と奥出が歩いて来て座る>
<二人にサス>
「お笑い芸人目指して大阪にでてきたのになんで売れんのや
ろ?」
「もう2年もたってしもた。クラスではそこそこウケたネタもこ
こではさっぱりやー。」
「もう俺らあかんのかもしれん・・・」
「はぁ・・・どうしよ。」
<二人のサスを消して、寺角のピンスポ>
「かなり深刻そうじゃのう。お笑いは実は感性と深―い深―い関
わりがあるんじゃよ。」
<照明消す>
<三人舞台袖へ>
私達は笑うことを求めてお笑いを見ます。そして、面白いと感じたり、これは面白くない、自分に合わないと感じます。
ある人は、この芸人はとてもいい!と思い、またある人は全然!と思うかもしれません。

これは感性が人によって異なっているからです。

「笑っていいとも」は1982年に始まって以来、レギュラーの中に必ずお笑い芸人が含まれてきました。
そして、この番組の最大の特徴とも言えるのが、出演者のアドリブによるフリートークで番組が成り立っているということです。
それまでのお笑い番組は「ドリフ大爆笑」のような綿密な打ち合わせの必要な番組が主流でした。
その時代の芸人にはそれぞれの活動に専門性があったのですが、現在は一人の芸人が、漫才、コント、トークといろんなことをこなさなければならなくなってきています。このことは「笑っていいとも」をきっかけに起こったことです。
そして、それに伴いお笑い芸人が出演しているテレビ番組も多様化しています。

これは、「笑い」を私たちに提供しようとする者の感性、またそれを見る側の感性の、両方の感性が多様化していることの二つを表しています。
<清水が舞台下手に出てくる>
<清水にピンスポ>

なぜ、感性の多様化が起こるのでしょうか?関西と関東では笑いが違うとか、自分と友達では好きな芸人が違うということはよくあることだと思います。
ここにいくつか例があります。
<照明消える>
<松原舞台袖に消える>

昔は子供から大人まで、どの世代も楽しめる「欽ちゃん」の番組が広く受け入れられていました。
しかし、今は子供と大人で好きなお笑い番組が違います。
この背景には、日本が裕福になったことで、各家庭のテレビの台数が増え、一人一人好きな番組を見れるようになったこと、そして、そのためにターゲットを絞った番組が作られるようになったこと、が挙げられます。

放送作家の高田文夫さんは、「昔と今では根本的なお笑いの違いはないが、今の方がお笑いのレベルが高い」と言っています。
そして、これは私たちが会得する情報や教養の量が昔よりも除々に増えてきていることに関係しているそうです。

<照明消える>
あるテレビ番組で、大阪の人と東京の人の、リアクションの違いを調査するために、道端で突然侍姿の人が通行人に斬りかかるという実験をしました。
大阪の人の場合、
<舞台両脇にピンスポ>
<侍が舞台下手から現れ、反対から通行人が現れる>
<ピンスポが二人を追う>
<二人がすれ違う時、侍が通行人に斬りかかり、通行人は死んだ
ふりをして倒れる>

<倒れたところで暗転>
このように8割が死ぬフリをします。
<松原が話している間に二人は舞台袖に消える>
しかし、東京の人の場合、
<舞台両脇にピンスポ>
<侍が舞台下手から現れ、反対から通行人が現れる>
<ピンスポが二人を追う>
<二人がすれ違う時、侍が通行人に斬りかかり、通行人は斬られ
たふりをせずに通り過ぎる>

<侍、取り残され、通行人を振り返るが通行人そのまま袖へ>
<通行人袖に入ったら、照明消す>

9割の人は冷たい反応をしました。これは地域によってリアクションが異なることを明確に示しています。
<田中が舞台下手に出てくる>
<清水にピンスポ>

このように人が育ってきた環境の違い、つまり、世代、地域、家庭環境の違いなどによって面白いと思うお笑いにも違いがでてきます。
<照明消える>
<清水舞台袖に消える>
<田中が舞台下手に出てくる>
<田中にピンスポ>

感性は、様々な経験を積み重ねることで生まれ、多種多様に磨かれるものなのです。ある種の経験を積むことが感性の形成に関わってくるのです。

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