越の三川(こしのさんせん)とは?

 福井市内を流れる九頭竜川(クズリュウガワ)・足羽川(アスワガワ)・日野川(ヒノガワ)のことである。

 九頭竜川は、福井市北部を西に向かって流れており、足羽川を合わせてきた日野川と福井市の西部で合流し、三国湊から日本海に注ぐ県内最長の川である。全長は百十キロメートルに達し、昔は「崩川(クズレガワ)」とか「黒竜川(コクリョーガワ)」などと呼ばれたらしい。
 足羽川は、福井市中心部を西に向かって流れる川である。江戸時代には「北の庄川(キタノショウガワ)」「福井川」とも呼ばれたらしい。柴田勝家の北の庄城、越前福井藩の福井城の外堀としても利用された。現在は堤防沿いに桜が植えられて、シーズンになると花見客でにぎわうなど、県民憩いの場となっている。
 日野川は、平安時代の国府である武生市(たけふし)、世界体操選手権や眼鏡の産地として有名な鯖江市(さばえし)を貫いて、福井市の南部から流れ込み、北に向かって流れる川である。

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橋本左内について

 1834〜1859年(天保5〜安政6)幕末の藩士。福井県常盤町(現福井市春山2丁目)に生まれた。父は長綱、母は梅尾。
 15歳のとき『啓発録』を著したが識見みるべきものがある。1849年(嘉永2)小山谷で行われた解剖に従事。その年秋、大坂の緒方洪庵の適塾に入り、蘭学を学ぶ。1852年父の病によって帰郷、ついで家督をつぎ25石5人扶持を受ける。笠原白翁と親交あつく、種痘にも熱心であった。また陰茎切断術、乳癌切除術などの難しい手術も行っている。しかし向学の志やみがたく、1854年(安政1)江戸に上って坪井信良・杉田成卿につき、蘭学の勉強を続けた。その間、水戸の藤田東湖らと交わるうち、窮迫した時勢にめざめ、医学を離れたい心を起こした。1855年中根雪江・鈴木主税の尽力により、医員を免ぜられ、御書院書組に転じた。しかし1856年、鈴木主税の死に際しては、心をこめた医療を行っている。同年6月、福井に帰り明道館改革に従事、洋楽所の設定、横井小楠の招聘に力を尽くした。1857年(安政4年)藩主松平慶永(春嶽)の命により出府、侍読兼御内用掛として国事に関与することになった。そのころ天下の2大問題は、将軍後嗣と米国との通商条約の案件であったが、左内は春嶽を助けて一橋慶喜を推し、また開国を推進する立場で活躍した。1858年老中堀田正睦が条約勅許を得る目的で上京すると、春嶽の命で上洛、堀田を側面から援助するとともに、慶喜を将軍後嗣とする内勅を得るために奔走した。しかしこの運動は失敗し、堀田は失脚、紀州派の井伊直弼が大老となった。井伊は一橋派に弾圧を加え、春嶽も隠居謹慎を命ぜられた。ついで井伊は、尊王攘夷派にも過酷な弾圧を加え、いわゆる安政の大獄をおこした。左内も取り調べを受け、ついに1859年(安政6年)10月、軽輩の身で将軍後嗣のような大事に関与したのは不届きであるとの理由で死罪に処せられた(享年26歳)。世上往々左内を尊皇攘夷の志士に数える人があるが、左内は積極的な開国派で全く思想を異にする。また1857年ごろに、藩の枠を越え、日本の近代化を構想していたのは左内のほかにほとんどなく、左内の識見は時流を抜いていたといえるであろう。
(福井県大百科事典より)

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明道館について

 1855年(安政2年)に開校した福井藩の藩校のこと。藩政改革を目指した16代藩主松平春嶽によって開設された。1857年には学監の立場にあった橋本左内により洋学学習所がもうけられた。明治維新を機に藩校の組織を変え、1869年(明治2年)に校名も明新館と改称した。
(福井県大百科事典より)


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